TA:自分たちのレコーディングの仕方を見ていてもそう思う。「やろう」という志さえあれば、ノートPCとマイクといくつかの機材があれば、ヴォーカルなんかはホテルの部屋でも録れてしまうしね。1日何十万円みたいなスタジオをわざわざ押さえなくても可能なわけです。俺の子供の頃、例えば人気アイドルのレコードがすごく売れたと言っても30万枚くらいだった。だから何をもってして今、音楽業界が縮小してると言われているのか? 俺にとってはよくわからないところがある。15年一緒にやってきた佐久間正英さんが、毎日寝る前にiPhoneとかに入っているアプリのキーボードとかでインスト曲を作ってTwitterとかにアップロードしてる。根っからの音楽家であって、そこに「俺の著作権だ、どうだ」みたいなことは絡んでこない。俺もミュージシャンのひとりとして見ていて、嬉しいですよね。だから『Apologize』みたいな届け方の曲があってもいいと思う。“音楽に求めていたもの”のひとつがこの曲と届け方にはあると思うから。

─システムに翻弄されないために必要なものは、何だと思います?

TA:佐伯さんらしい問いだね(笑)? 必要なものは“哲学”でしょう?

─ご名答(笑)。


TA:GLAYが15年やってきて得たものの中から、今、哲学を見い出している。その哲学をもって、新しいやり方を試せばいい。

─現在の新人たちを見ていても、音楽を聴いてもらえるチャンスを作るツールや場はあるわけなので「自分から発信できないから、聴き手が振り向いてくれないんだ」という言いわけはできない。

TA:そう。いつの時代でも「評価を得たい」という気持ちは変わらずある。俺たちもデビュー前はそうだったし、そこから作ってきたものにもはや時代性がないのだとしたら、また新しく作ればいいし、試してみればいいと思う。ただ今のGLAYは闇雲にアピールすればいいって時期でもないし、むしろ仰々しくない感じで何ができるか?ってところに大切さを感じてる。だから『Apologize』は、“ギフト”になればいい。昨年末に約束したツアーも2010年の6月からスタートできそうだし、今年もライヴが多い年になりそうですよ。約束が守れることは、嬉しい。原点回帰って使い古された言葉だけど、変わりゆく時代の中で、自分たちも楽しむために、原点回帰のような感覚を取り戻すことは大事なことだと思う。94年のデビューから学んできたことでまったく通じないこともあるし、逆に15年やってきたからこそのタフさもあるし…。送り手と受け手の信頼関係が崩れない何かを探しているのかもしれない。

─あと、作曲者としては1曲1曲、性格や素性が違うと思うので、1曲ごとに伝える方法も模索するべきだよね。

TA:本当に。ツアーの前にアルバムを出すのでもう少し待ってください、その前にシングルを2枚出しますから、っていうのが今までだとしたら、「もう、そうじゃない」と思う。例えシングルを何枚も出そうが、聴かれる曲は聴かれるし、そうじゃない曲もある。だとしたら「右へならえ」することもないんじゃないかと。クラシックにシングル曲はないしね(笑)。そういうことも含めて、惰性化せずにひとつひとつを見つめ直す時期に、今GLAYはいると思う。ひと言で言えば「意志」の確認ですよね。「意志」は、俺がロックミュージックから受け取った大きなことのひとつかもしれない。

<REVIEW>
人生の大きなテーマに“乗り越える”ということがあるとするなら、乗り越えるために必要なものは、激しい一時の感情ではなく、そこはかとなく持続する感情なのではないかと思う。春先を作曲のモチベーションにすることが少なくないTAKUROが、GLAYを通して伝えようとするものは、声高に言うとウソめいてしまったり壊れてしまいかねない気持ちである。キャリアを重ねれば、ウソめいてしまうことにさらに敏感になり、曲作りはデリケートになるだろうが、デリケートになりすぎてもいけない。そもそも“神経過敏”がこの曲の主旨ではないからだ。曲中TERUの声に彩りを添える女性ヴォーカルは、TAKUROの言葉を借りれば「ひとつの楽器」であり「記名性のない声が必要だった」ということになる。その女性ヴォーカルに“そこはかとなさ”を聴き取ることはできるだろうと思う。確かに存在する気持ちを、あからさまなドラマの中で浮かび上がらせるのではなしに、「ただ気持ちがここにある」ということだけを丁寧に掬い取っていった『Apologize』は、デビュー15周年を括ったGLAYが、今まさに開けようとしている新しい扉なのである。
音楽文化ライター・佐伯明